横浜地方裁判所 平成9年(わ)2274号 判決 1998年4月16日
主文
被告人を懲役四年に処する。
未決勾留日数中一〇〇日を右刑に算入する。
押収してある出刃包丁一本(平成一〇年押第三六号の1)を没収する。
理由
(罪となるべき事実)
被告人は、無断外泊して帰宅した娘のA子(当時一六歳)と口論となり、「うるさい、くそじじい。」などと言われたことに憤激の余り、平成九年七月二九日午前八時五〇分ころ、横浜市緑区<省略>所在の市営<省略>住宅三二四号棟前階段付近において、同女に対し、所携の刃体の長さ約一三・二センチメートルの出刃包丁(平成一〇年押第三六号の1)を投げつけてその後頭部に命中させ、同女に左後頭部刺創を負わせ、よって同日午後一一時五一分ころ、同区<省略>所在の医療法人社団三喜会横浜新緑病院において、同女を小脳刺創及び頭蓋内出血により死亡させた。
(証拠)<省略>
(事実認定の補足説明)
一 検察官は、要するに、被告人は、無断外泊を繰り返すようになった被害者と口論となり憤激の余り確定的殺意をもって出刃包丁を投げつけたものであり、被告人には殺人罪が成立する旨主張し、これに対して弁護人は、被告人には殺意がなく、傷害致死罪が成立するにすぎない旨主張するので、以下検討する。
二 目撃者B及び被告人の妻Cの各供述を中心とした関係証拠によれば、犯行に至る経緯、犯行状況等として以下の事実が認められる。
1 被害者は被告人の一人娘であるが、被告人は日ごろ被害者を大変にかわいがり、自分や二人の息子が高校を卒業していないことから被害者には無事卒業してもらいたいと切望していたところ、被害者は、平成九年六月中旬ころから外泊を繰り返し、本件の一週間くらい前からは無断で外泊もするようになったので、被告人はこれを注意をしていた。さらに、同年七月二九日に予定されていた被害者の高校での親を含めた三者面談について、被告人は、被害者が高校を卒業できなくなるのではないかなどとひどく心配していたが、被害者が七月二七日無断外泊をしたので、被告人は、七月二八日の夕食の際、被害者に対して当夜は外泊をしないよう強く注意した。
2 被告人は、飲酒すると攻撃的になって、ささいなことでも自分の思うようにならないと怒り出し、「ぶち殺すぞ。」などと言って妻に対して暴力を振るったり、食器等の物を投げつけたりすることがよくあり、本件の一か月前くらいからは、妻の足元などに出刃包丁を投げつけるようにもなった。被告人は、被害者に対しては、怒鳴りつけることはあっても暴力を振るうことはなかったが、本件の一週間くらい前には、外泊のことに関して被害者に対して出刃包丁を振りかざしたことがあった。
3 被害者は、右のように二八日の夕食の際外泊をしないよう強く言われたにもかかわらず、当夜も行き先を告げずに外出して帰らなかった。これを知った被告人は、怒って妻に当たり散らすなどした上、焼酎を飲んで眠った。
4 翌朝、被告人は起きてすぐ残りの焼酎一合分を飲んだ。被告人は、午前八時過ぎころ、帰宅した被害者に対し、「お前どこに行っていたんだ。何をしていたんだ。お前なんかいらない。出て行け。ぶっ殺してやる。」などと激怒して怒鳴りつけたのに対し、被害者が、「くそじじい。」などと口答えをして口論となった。被告人は、台所の流しの下から出刃包丁を持ち出して振りかざしたが、これを見た妻が被告人から包丁を奪いとり、被害者に逃げるように言ったので、被害者は玄関から屋外に逃げ出した。次いで、被告人は、今度はたんすから被害者の衣類を取り出し、「出て行け。」などと怒鳴りながらこれらを次々に玄関から外に放り投げた。そして、被告人は、再び台所の流しの下から前記出刃包丁(刃体の長さ約一三・二センチメートル、重さ約一七八グラム)を持ち出し、「殺してやる。」とつぶやきながら外に出た。その際、妻は再び外に向かって「逃げろ。」と叫んだ。
5 被害者は、玄関から出て、いったんは三二四号棟の出入口階段の途中に腰を下ろしていたが、前記母の声を聞いたためと思われるが、立ち上がって歩いて降りかけたとき、被告人が部屋から外に出てきた。被告人は、階段の降り際に立ち止まり、右手に持った前記出刃包丁を頭部右側付近に振り上げて、階段を降りつつあった被害者の方に投げつけた。その時、被告人は階段の一番上に、被害者は階段の上から六段目付近におり、被害者の頭部はおおむね被告人の足元の高さにあって、両名の水平距離は約三・三メートルであった。
6 被告人が投げた出刃包丁は被害者の後頭部に突き刺さり、その後階段上に落下した。被害者は、出刃包丁が当たった後、両手を後頭部にあてがい、そのまま階段を降りて道路を歩いて行った。被告人も、階段を降り、包丁を拾って、被害者の後ろをしばらく歩いてついて行った。被害者は近くのそば屋付近まで歩いて行ったが、被告人は、被害者を立ち止まって見ており、その後引き返した。
7 被害者は、左後頭部に深さ約三センチメートルの小脳に達する刺創を負い、同日午後一一時五一分ころ、収容先の病院で小脳刺創及び頭蓋内出血により死亡した。
三 殺意の有無について。
本件で使用された凶器は、刃体の長さが約一三・二センチメートルの先鋭な出刃包丁であって、それ自体人を殺傷することのできる危険な物である。また、前記のような犯行直前の言動に照らすと、被告人が当時被害者に対して非常に憤激していたことや、右出刃包丁を約三・三メートルの距離から下方にいる被害者の方に向かってその背後から投げつけるという行為態様などに照らせば、本件行為は被害者に傷害を負わせる危険性の高い行為であって、被告人も当然にこれを認識、認容した上で本件行為に及んでいるのであるから、被告人が本件当時、少なくとも傷害の故意を有していたことは明らかである。
しかしながら、本件行為態様は、出刃包丁を約三メートル余り下方の階段上を降りていく被害者に一回投げつけたというものであって、これにより本件ではたまたま包丁が被害者の後頭部に命中して刺さったとはいえ、一般的にみてこのような行為により被害者の死亡という結果が発生する危険性はそれほど高くはないこと、動機についてみても、被害者の無断外泊行為に腹を立て、被害者の態度に憤激したとはいえ、日ごろ大変かわいがっていた実の娘に対し、確定的故意をもって殺害を決意したというにはいかにも薄弱であること、「ぶっ殺してやる。」と怒鳴った、あるいは「殺してやる。」とつぶやいたなどというのも、被告人の日ごろの言動に照らし単に強がりで述べた可能性があり、これらをもって殺意を有していた根拠とするには足りないと言わざるを得ないこと、もし確定的故意を抱いていたというのであれば、それ相応のより積極的な行為に出るのが自然と思われるが、被告人は、被害者が逃げ出しても直ちに追跡せず、衣類をまき散らすなどして当たり散らし、また、屋外に出たのち、歩いて降りて行く被害者を発見しても、直ちに接近して直接刺すことは可能であると思われるのにこのような行為に出ていないし、さらに、包丁を投げつけたのちも、歩いて行く被害者の後をついて行くだけで、それ以上の行為に出ていないこと、以上の点を指摘することができるのであって、これらに照らせば、被告人が被害者殺害について、確定的故意を有していたとは認めがたい。また、以上の諸点に加え、被告人が実の娘が死亡してもかまわないと認容していたと認めるには動機が弱いことなどからすると、被告人が未必の故意を有していたことにも疑問を抱かざるを得ない。したがって、被告人に殺人の故意は認めがたい。
以上により、被告人には傷害致死罪が成立すると考える。
四 心神耗弱について。
弁護人は、被告人は犯行当時心神耗弱の状況にあったと主張する。
前記のとおり、被告人は、犯行前日外泊しないよう強く注意したにもかかわらず無断外泊して朝帰りした被害者に対し憤激して本件に及んだものであって、右経緯に照らし本件に至る動機は十分に了解可能である上、犯行直前及び犯行の際の被告人の言動のほか、本件出刃包丁を拾い上げ被害者の後ろをついてその様子をうかがうといった犯行直後の行動や、その後任意同行された際の警察官に対する言動等をみても、特に不可解な点は認められないこと、犯行から約一時間三〇分後に行われた酒気帯び検査では、呼気一リットルあたり〇・五五ミリグラムのアルコールが検出されているにすぎないこと、被告人の犯行当時の責任能力に関する鑑定書(甲三〇)は、内容に何ら不自然不合理な点はなく十分信用することができるが、これによれば、被告人の犯行状況の記憶の欠損は心因性の健忘にすぎず、また、被告人は犯行当時飲酒による酩酊状態にあったが、その酩酊度は普通酩酊の程度にすぎないとされていること、本件については以上の事情が認められ、これらの点を総合すれば、本件犯行当時、被告人が自己の行為の是非善悪を弁識しこれに従って行動する能力が著しく減弱していなかったことは明らかである。
したがって、弁護人の主張は理由がない。
(法令の適用)
被告人の判示所為は刑法二〇五条に該当するので、その所定刑期の範囲内で被告人を懲役四年に処し、同法二一条を適用して未決勾留日数中一〇〇日を右刑に算入し、押収してある出刃包丁一本(平成一〇年押第三六号の1)は、判示犯行の用に供した物で被告人以外の者に属しないから、同法一九条一項二号、二項本文を適用してこれを没収し、訴訟費用は、刑事訴訟法一八一条一項ただし書を適用して被告人に負担させないこととする。
(量刑の理由)
本件は、無断外泊して朝帰りした娘である被害者に対し、口論の末、出刃包丁を背後から投げつけ、その後頭部に命中させて死亡させたという事案である。
先鋭で重量のある出刃包丁を約三・三メートル後ろからいきなり投げつけており、危険な行為態様である。その動機も、被害者が自分の意のままにならないことに憤激し、いったんは制止されたにもかかわらず、再度出刃包丁を持ち出して本件犯行に及んだというもので、あまりに短絡的である。生じた結果も極めて重大であり、わずか一六歳の若さで自己の父親の手によって命を落とした被害者の心情を思うと、なんとも痛ましい限りである。
以上からすると、被告人の刑事責任は重大である。
一方、被害者死亡という結果は偶発的なものであること、被告人は本件について深く後悔し、被害者の死を悲しんでいること、家族も被告人をゆう恕し、妻が公判廷において被告人の監督を誓っていることなど被告人に酌むべき事情も認められるから、これらの事情を総合考慮して、主文の量刑が相当であると判断した。
そこで、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 中西武夫 裁判官 小島しのぶ 裁判官 松田浩養は転補のため署名押印することができない。裁判長裁判官 中西武夫)